その男は電車に乗る前に用を済ませてきた。
なぜなら彼は社会の窓を、威風堂々と開放しているからだ。
まだ30歳にはなっていないだろう。身長180cmは下らない長躯を黒いスーツで固めたその男は、スーツと同系色の長いコートを羽織っていた。
だから両手をコートのポケットに入れていれば、下半身の有り様を世間に向けて広く主張することにはならなかっただろう。
しかし男は、スラックスの両ポケットに手を突っ込んでいた。むしろ強調するが如くだ。
男のベルトのバックルはかろうじて留まっているものの、余った先の部分がスラックスのベルト通しに収められていないため、およそ30cmほどびよーんと前方に突き出していた。
30cmとひと口に言ってみたが、A4サイズの紙の長い辺と同じくらいある。結構目立つ。
男はやや前後不覚のきらいがあった。
別の言い方をすれば、男には酩酊の様子が見て取れた。
自らの力だけでは支えきれない体を預けるように、扉が閉まるとそこにもたれかかった。
すると、見る見るうちに頭の位置が低くなっていく。
なんと申し上げればよいのか。
長い板を壁に立てかけたら床に接している辺が滑って、パターンと倒してしまった経験はないだろうか。
今の男は一枚の板に等しい。
両方の足先はどんどん扉から遠ざかるが、超人的な背筋によって身体はまっすぐに保たれているため、扉にこすりつけるようにしながら頭の位置が低くなっているのだ。
しかし、男はれっきとした人間だった。
その証拠に、身体が扉に対するつっかい棒のような角度まで傾いたとき、両足をかわるがわる小刻みに動かして原状復帰したのだ。
復帰の仕方は独特である。
通常は腰を曲げて上半身の重心を足のほうに移すことで、倒れるのを防ぐ。その動作の結果として扉から頭が離れる。おもむろにもう一度扉によりかかる、という手順を踏むだろう。
男の場合、唯一扉と接している後頭部をより強く押し付けることでグリップ力を増し、両足を交互にふんばって、ずり落ちてきたのとは逆にずり上がっていく手順を採用した。
「そこらへんの板と一緒にしてもらっちゃ困る」
そんな男の声が聞こえてきそうだ。
男の動きは、まっすぐ伸ばした背をそのままに、ずり落ちてはずり上がり、ずり上がってはずり落ち、を繰り返す。
ずり上がるのも、男の靴がスニーカーならば比較的容易だっただろう。
だが、スーツとコートにスニーカーを合わせられるのはヤッピーくらいで、今や絶滅危惧種だ。
それでもまだ、なんちゃって革靴ならばよかった。ソールにゴムを使っているからだ。
男は本格派だった。モノにはこだわる男だった。
いい革靴の底は、雨に濡れたリノリウムの床に弱い。
後頭部だけを扉に押し付けた状態で背筋を伸ばした男は、もたれ姿勢のままで靴をつるつると滑らせる。
コントか。
そうこうしているうちに、次の駅が近づいてきた。
進行方向右側の扉が開くという車内アナウンスが流れる。
その扉は男の命綱である。
すってんころりんという時代錯誤な効果音を発しながらホームへ倒れ込むのではないかとこっちがドキドキ伝説魔法陣グルグルだ。
……。
あ。意外と大丈夫。
駅に着いて扉が開くと、足を基点にして、男の頭は扉と一緒に左へスライドしたのだ。アナログメーターの針が左に振れるような様子。
男はさらに微妙に頭をずらすと、扉の枠へ後頭部を押し付けた。戸袋に頭を引き込まれることもない。
扉が閉まると、メーターの針が右に振れるように、男の頭は扉と一緒に戻ってきた。足の位置は揺るがない。
列車が走り出すと、男はまたずり落ち、ずり上がった。
ただただ、ずり落ち、ずり上がった。
社会の窓を閉める気配も、ベルトの先を収める様子もない。
惜しむらくは、これは日曜日の夜。京浜東北線の磯子行き最終電車には、観客がほとんどいなかったことだ。
席、空いてるから座れ!